変わらぬ朝
オリンピックの歓喜のニュースと合わさって、コロナの新規感染者数が一万人を超えたというニュースが流れ新聞やテレビは慌ただしい。だが私の住むような地方の町の日常の風景には何の変わりもない。
少し散歩コースを変えてみると、普段気づかないものが目に入る。線路の横にオシロイバナが群生していた。また昨日は黒猫の日であったが、今日はいつも通り、よく見かけるキジトラ猫君が道の横にたたずんでいた。
漱石の「明暗」
今日は、昨日できなかった読書の話で、一昨日の続き。漱石についての話は今日で最後にするつもりだ。取り上げる作品は「明暗」。読んだのはもちろん子供時代ではなく成人してからである。
「明暗」は名作である。漱石の作品の中でもいちばんの傑作だという人も多い。またこの小説は作者が病気で書き続けられず、死んでしまったため未完である。それでいて長い。未完なのに漱石の長編の中でもいちばん長い小説なのである。
未完ということ
ひょっとしたらすでに論じられていることかもしれないが、私の感想を少し。
「明暗」は未完であるから、最後まで書かれていたらどんなに凄い小説だったのだろうと惜しまれるが、逆に未完であることが魅力になっている。小説の創作上の技巧として、作者が結末まで示さないで筆を置くというのがあるが、それは作者が意図的にやっていることなので、作品の世界は作者の意図の中に収まってしまうことになる。ところが「明暗」の場合は、作者が意図しないところでぷっつりと切れていて、しかもそれが話が展開していく絶妙の箇所なので、その後の作品の世界は読者の頭の中で無限に広がっていく。あまりにも絶妙のタイミングで終わっているので、漱石は「せめてここまでは・・・」と考えて必死で書き、筆を置いたのかもしれない。「明暗」はあの場面で未完で終わることがいちばんいい小説だと感じられる。だから読み終えて、未完であることが惜しいとは全く思わない。もし自分の命の終わりを感じて、未完であることも含めての作品にしようとしていたのなら、漱石はさらに凄い。
漱石は五十前で世を去っている。もし漱石が八十歳くらいまで生きていたら、どんな文学を完成させていたのか、そう思わせるような小説である。そこまで考えていたとしたらもっと凄いが、さすがにそんなことはないか。