「吾輩は猫である」を読んで
昨日に続いて、漱石の作品との出会いの話。
「吾輩は猫である」は、さすがに題名を知らない人は少ないと思うが、全編読んだことのある人がどれくらいいるのだろうか。特に若い世代では少ないと思う。(高校の1クラスに1人くらいとして2パーセントくらいか。)
さて、漱石の作品など、多くの研究者が論じつくしているので、ここからは単なる小学生時代を思い出しての私の感想と言うことになる。当たり前のことを発見のように述べていたり、見当はずれのことを書いていたりするかもしれないがご容赦を。
笑いのセンス
「吾輩は猫である」から得たものは、「笑い」である。
もちろん、小学校の低学年に読んだ本の中にも笑いの要素が強い作品はたくさんあった、たとえば「クマのプーさん」には、子どもにも分かる、それでいて上質な独特のユーモアがあるし、日本の、また海外の昔話を集めた小話にも笑いの要素のある話は多かった。それらは私の笑いに対する感覚に影響を与えているのだろうが、「吾輩は猫である」の笑いは、大人の笑いというものを感じさせてくれるものだった。
落語と「吾輩は猫である」の笑い
「吾輩は猫である」の笑いの意味を、当時の私がすべて理解できていたとはいえない。ただ、笑いの中にもストレートなもの(今よくテレビで使われている言葉でいえば「ベタな笑い」)とそうでないものがあり、バリエーションがあるのだなということは感覚として分かった。
「ベタな笑い」の代表例は、「吾輩」に対して友だちの三毛子が、自分の主人の出自を語る時の「何でも天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先のおっかさんの甥の娘なんだって」という言葉に始まるやりとりで、まさに落語の呼吸なのだが、そういうストレートな笑い以外にも色々な笑いが全編に散りばめられている。
小学生の頃の私には、この作品の社会に対する風刺や文明批評的な面などはあまり分からなかったが、知的な笑いの世界を見せてくれる作品であった。
登場する猫たちのイメージ ~ 私の撮った猫写真から
ところで、この話に登場してくる猫たちはどんな姿なのだろうか。
まず、主人公の「吾輩」は、本文に「ペルシア産の猫のごとく黄をふくめる淡灰色に漆のごとき斑入りの皮膚」とある。「漆」は黒だろうが、「黄色がかった灰色」の毛色に黒の模様の色の猫は見たことがないので、白地に黒とした。
三毛子と車屋の黒は、そのままのイメージ。
この話の続きは明日以降にします