麻雀放浪記の世界
今日は読書の話題です。11月17日の『麻雀放浪記』の続き。
この話は冒頭でチンチロリン賭博に明け暮れるアウトローたちの姿が描かれ、主人公の坊や哲が登場する。最初の場面は三人称で書かれているが、坊や哲の登場からは「私」という一人称に変わり、読者は「主人公の哲=作者」という感覚で話を読み進めて行くことになる。
「私」は根っからの博徒ではない。「中学の制服を着たまま、毎日上野へ来て」という描写から、まだ十代後半の若者であることが分かる。また宿無しではなく、帰る家もある。それがチンチロリン賭博で大勝ちしたことをきっかけに博打の魅力にとらわれ、アウトローの世界に入っていく。ここで登場してくるのがドサ健。「私」は賭場でドサ健の指図にしたがって張っていき大勝ちをする。ここまではドサ健は頼もしい兄貴分だが、彼はその後、「私」にコーチ料として儲けの半分以上の金を請求し、「私」はバクチ打ちの世界の厳しさを肌で知ることになる。ドサ健にはその後、さらに煮え湯を飲ませられることになるのだが、このあたりの展開はまことに巧みである。
こうやって、作者はアウトローの世界を描き出していくのだが、一言で言うと、博打で勝つために、どうやって人をだましていくかという場面の連続である。登場する麻雀の技も、要はどれだけ裏技を巧みに用いて相手に勝つかということに尽きる。伝説となったツバメ返しも二の二の天和も、すべてイカサマ技だ。作者がどこかのエッセイで書いていたと思うが、バクチ打ちは人格破綻者の集まりで、金を失い、人の心を失って次々と人生から脱落していく。したがって、現実をそのまま描いたら読むに堪えない汚れた世界になるのだが、それを人間味あふれる魅力的な物語として描いたのが作者阿佐田哲也の凄さだ。
映画を見て
ところで、『麻雀放浪記』は1984年に和田誠監督で映画化され、私はさっそく観に行った。確か奈良の三条通りにある映画館だった。戦後の雰囲気を出すためにあえてモノクロフィルムで撮影したという作品だがおもしろかった。小説が好きな場合、映画を観てがっかりするということがあるが、そんなことは全くなく、原作の世界の空気感がみごとにスクリーンに映し出されていた。
この映画の評価としてよく言われるのが脇を固める役者たち(ドサ健=鹿賀丈史、出目徳=高品格ら)の好演で、それはもちろんだが、私が印象に残ったのは坊や哲を演じる真田広之。俳優を主演タイプと脇を固めるタイプに分けるなら、主演タイプなのだが、ケレン味のない演技が光るとともに、脇の曲者たちをみごとにひきたてていた。ちなみに、真田広之が麻雀をするいう話は聞かないが、坊や哲に麻雀の手ほどきをするクラブのママ役の加賀まりこは麻雀が好きだという。
とにかく、小説も映画も十分楽しめる作品だった。この小説や映画のことはいくらでも書けるのだが、長くなりすぎるので、また気が向いたらどこかで