小川洋子『密やかな結晶』
今日は読書の話題。小川洋子の『密やかな結晶』。
小川洋子は好きな作家なので、読む前からの期待値が高い。この作品は1994年に書かれた長編で、作者の初期の代表作の一つだ。
舞台は架空の「ある島」。具体的な島の場所は明かされない。主人公はそこに住む若い女性の「わたし」で、小説家だ。その島では「消滅」と呼ばれる現象が起きる。それはもの自体が消滅するのではなく、その物に対する記憶が失われる。「消滅」が起きると、人々は「消滅」したものを捨てなければならない。例えば「バラ」が消えたら、町のバラ園のバラの花ははなくなり、川は投げ捨てられたバラの花でいっぱいになる。なぜ、どんな原理で「消滅」が起こるのかは説明されない。
街には「秘密警察」という組織がある。彼らは「記憶狩り」といって、消滅したものを人々が所持していないか厳しくチェックする。また、人々の間にいる「記憶の消滅」が起きない人間を捕らえて連行する。「私」の母もそういった人間の一人で、秘密警察に連行されたまま、戻ってこなかったという過去がある。「私」と親しい編集者のR氏も記憶の消失が起きない人間の一人だった。「私」はR氏が秘密警察に連れ去られないよう、「記憶狩り」によって動かなくなったフェリーに住む整備士のおじいさんとともに、自分の家の屋根裏に隠し部屋を作り、R氏をかくまう。その間にも「消滅」と秘密警察による記憶狩りは進行していき、ついには、人々は自分の体の一部の記憶さえ失うことになり、「私」は自分自身の消滅を予感する。
ざっとこういう話だ。読みかけてすぐ連想したのは、依然読んだ筒井康隆の『残像に口紅を』で、こちらは一つずつ文字が消えていき、同時にその文字で表現される言葉と「もの」も消えるという話。たとえば、「け」が消えると「けしごむ」も「とけい」も自動的に世の中から消失する。さらに小説自体もその文字を使わずに書き進めなければいけないという、実験的な小説で、主人公が小説内の登場人物であることを意識しているメタフィクションである。筒井康隆の面目躍如といった作品で、おもしろかったのだが、『密やかな結晶』はまったく世界が違う。
個人的な感想を言うと、今までに読んだ小川洋子の作品、特に短編に見られる透明感のある繊細で感覚的な文体が影を潜めている気がした。小川洋子の作品を読む時は、どうしてもハードルが上がってしまうのだが、この作家の作品の中で上位に挙げられるものとは思わなかった。
ただ、この作品が近年になって、世界的に高い評価を受けているというのは、物語としての構想によるところが多いという気がした。人々の記憶が消え、ものに対する感受性も失われるという不条理や、小説に登場する「秘密警察」の存在が、先行きの見えない世界の現状や、異質者を排除する監視社会の恐怖を表しているといった点で、人々の心に響くものがあったのかと思った。
