ナラネコ日記

私ナラネコが訪ねた場所のことや日々の雑感、好きな本のこと、そして猫のことを書き綴っていきます。

私の読書 ~ 最近読んだ本 2024年 其の十一

今村夏子『こちらあみ子』

 今日は読書の話題で、最近読んだ本の感想。

 1冊目は今村夏子の『こちらあみ子』。今村夏子の小説は、芥川賞受賞作の『むらさきのスカートの女』を初めて読んだが、『こちらあみ子』はデビュー作だ。

 文庫本で、短編が3編収められている。独特の世界を持っている作家だが『こちらあみ子』はまさに全開という感じ。主人公のあみ子は変わった女の子だ。純粋だが、その突き抜けた行動が周囲を呆れさせ、母親の心は壊れる。面倒を見てくれた兄は不良となり、あこがれていたのり君にはパンチで前歯を折られる。ついに父親はあみ子を家族から引き離すが、あみ子の心のありようは変わることがない。

 この本の多くの読者と同様、私も今までの人生であみ子の側にいた人間ではない。しかしこの作品を読んでいると、こちらの世界にしがみつき、逸脱することを怖れて生きてきたことがつまらなくなってくる。あみ子の視点から見たとき、世界は今までと違った姿で目に映る。読んでいて、心をを揺さぶられるような小説だった。

 2編目の『ピクニック』は、ビキニ姿で接客をする「ローラーガーデン」という飲食店に勤めている七瀬さんという一風変わった女性が主人公。彼女は春げんきというタレントと交際しているという「妄想」を同僚の女性たちに公言している。そしてルミを初めとする同僚たちは彼女を応援して見守っている。途中まではそんな心温まる話のようだったが、読み進めていくうちに違和感がじわじわと広がっていき、ルミたちの(無自覚的かもしれない)悪意に読者が気づくような仕掛けになっている。

 『こちらあみ子』と違い『ピクニック』は七瀬さんではなくルミたちの視点から描かれているが、作者はルミたちの内面の核心的な部分は描かない。それが上記のようなミスディレクションにつながっているのかと思った。1回目さっと読んでから2回目読み直して、いろいろな仕掛けが施されている作品であることに気づいた。描かれているのは大人の世界だが、こちらのほうが怖い作品だった。

 3編目の『チズさん』は、文庫本のために書き下ろしたという小品で、一人暮らしのおばあさんを近所に住む「私」の視点で描いている。「私」がどんな人間なのか、全体像が分からないまま話が進み、ぷつりと終わる。いろいろな解釈ができる話だと思った。また、正体の分からない一人称の「私」視点というのは、『むらさきのスカートの女』に似ているという気がした。

今村夏子『こちらあみ子』

今村夏子『星の子』

 2冊目も今村夏子で『星の子』。『こちらあみ子』がよかったので、続けて読んでみようと思い、ブックオフに出ていたので買った。本との出会いには運というものがある。1冊だけ読んで、それほど相性が悪くないのに2冊目に手を出していない作家がいる。今村夏子の場合、『むらさきのスカートの女』『こちらあみ子』を先に読み、この作者の小説の世界を知った上で、この作品を読んだのは良かった。さらっと読んでしまうと何でもない小説なのだ。

 この小説の主人公はちひろという少女だ。幼い頃病弱だった彼女を救うため、両親は新興宗教に入れ込むようになる。心配して彼らの目を覚まさせようとするおじとは絶縁となり、姉は家を出て帰ってこなくなる。そういった家庭環境の中でちひろは育っていく。

 平易な文体で、ちひろの一人称で語られるため、読んでいてちひろの声をそのまま聴いているような感覚になる。カルト宗教による家庭の崩壊や宗教二世の苦しみといった社会的なテーマを表に鮮明に出す書き方もあるはずなのだが、作者はちひろという少女の目に映った世界をそのまま描いているため、静かに話は進んでいく。そして読者はこの少女がどんな人生を送っていくのか気になる。

 印象的な場面がいつもある。たとえば深夜の公園で頭に水をかけあうという儀式を行っている両親の姿を教師や友人とともにちひろが目にする場面。見慣れた光景なのにはじめて見たようにちひろは思う。両親に対して反発する感情をちひろは持たない。かといって両親のように信仰にのめり込んでいるわけでもない。物心ついた頃からの環境なので逃れられなくなってしまっているということだろう。したがって姉のように家出することもないし、おじの救いの手も拒絶する。

 ちひろは『こちらあみ子』のあみ子ほど強烈な個性を持つ少女ではない。しかし読んでいて、この少女の未来に幸せな人生が待っていてほしいと思い感情移入しながら読んでしまう。最後の親子で流れ星を探す場面はほのぼのとした情景のように見えて、未来への不安を孕んでいる怖い場面だ。最後から四つ前の文がちひろの未来を示唆しているとしたら。

今村夏子『星の子』